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「原発危機 益々募る不信感」

「原発危機 益々募る不信感」
ニューヨークタイムズ記事、2011年6月12日 翻訳
June 12, 2011
In Nuclear Crisis, Crippling Mistrust
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER

2011年3月12日の夜、福島第一発電所内の最も古い原子炉、1号機は水素爆発に続いて炉心の完全溶融(コンプリート・メルトダウン)の危機に直面していた。首相の菅直人は炉心冷却のための海水注入について、それにともなうリスクはどれくらいなのか、その評価について専門家の意見を求めた。

この危機的状況下において、これまで日本の財界と官僚の癒着関係を攻撃する事によってそのキャリアを築き上げてきた首相は、真っ暗闇で周囲の状況がほとんど分からないような中で行動しているということが明らかになった。原子力安全委員会のトップからは、わけのわからないリスク分析報告があった。このトップは熱心な原発推進派の学者で、総理周辺によると総理はすでにこのトップを信頼していない。総理はまた、東京電力についても警戒心を抱いている。同社はこれまで数多くの原発事故の隠ぺいを図ってきた過去があるからだ。

当時、菅首相は現地の所長がすでに海水注入を始めていたことを知らなかった。東電本社は官邸とのやりとりの中で得られた感触に基づいて、現地の所長に注水を止めるように指示した。

しかしその所長は、通常日本の会社組織としてはあり得ない行動に出た。彼は本社からの指示に従わず、密かに注水を続けたのだ。多くの専門家は、彼のこの行為によって、恐らく、もっと深刻なメルトダウンが起こることを避けることができたという。こうして所長は思いがけなく、ヒーローとしての扱いを受けることになった。

チェルノブイリ以来最悪で、発電所内の6基のうち4基の原子炉建屋が爆発するというこの原発事故の対処を巡って繰り広げられた複雑怪奇なドラマは、その背後に潜む関係者の間の、深い亀裂をまざまざと浮かび上がらせた。互いに疑心暗鬼になった首相周辺、政府官僚、そして東電幹部たち。彼らの間の相互不信がスムーズな意思決定を阻害した。

このドラマの中心には、「アウトサイダー首相」がいた。菅首相は、緊急に手を打つことが必要な事態に直面していたことを充分分かっていた。しかし、首相は、強大な力を持つ東電、そして東電に従順な官僚たち、そして彼らに協力的な政治家たちが一緒になって作り上げてきたこれまでのシステムに対して、強烈な不信感を抱き続けてきた、言わばアウトサイダーの首相であったのだ。そういう彼であったから、危機に際して、周囲からの協力を得られる術は、はじめから奪われていたも同然だった。首相にふさわしい適切な協力さえ得られていれば、もっと確かな情報に基づいた意思決定を下すことができただろう。

かつて市民運動家としての経歴をもつ首相は、この原発危機の対処にもがき苦しんだ。なぜなら、今回のような危機に際しては、前政権が築き上げてきたまさにそのシステムに頼っていては、とても対応し切れないと感じたからだ。

そこで、当初彼が頼りにして助言を求めたのは、ほんの数人の、個人的にごく近しい、言われた当人たちが当惑しているような人々だった。彼らは原子力発電所のことをほとんどよく知らず、東電や政府の原子力当局者とこれまでほとんど情報交換をしたこともないような人たちだった。津波被害に対する人道的救済措置に取り組む中、菅氏は悪化しつつあった原発危機への政府の対応を、急場ごしらえでしのごうとしていた。そのやり方は、時に東電に丸投げするかと思えば、逆に菅首相自身が現場に直接介入するなど、大きく揺れ動いているように見えるものだった。

内閣官房の松本健一参与は、「対応には遅れがあった。そもそも、我々は東電から正確な情報を得られていなかったのだから」と語った。しかし、同氏は首相の、東電や官僚に対する不信感が、対応全般にわたっての「障害になった」とも付け加えた。

事故発生直後の混乱ぶりは米国政府にも懸念を抱かせて、日本政府に対して、もっと決然とアクションを起こし前向きに情報提供を図るよう要請するに至らしめた。しかも(日米関係について)事態をさらに悪化させたのは、注水ポンプ車や、無人偵察飛行機、それにアメリカの原子力専門家派遣など、米国からの支援の申し出に対して、菅首相が当初、消極的な姿勢を示したことだ。

この間の事情に詳しい、首相理側近の国会議員、寺田学氏は言う、「負の連鎖にはまり込んでしまって、米国政府との関係は悪化するばかりだった。我々はアメリカから信頼を失い、東電は我々から信頼を失ったのだ」と。

「経験の不足」

菅首相の支持者の中でさえ、首相が政府内の既存の危機管理システムを活用していれば、もっと迅速に果断な行動がとれたかもしれないと言う声がある。

ここに言う危機管理システムは、1986年に整備され、その後も官邸機能の強化をもくろむ歴代内閣によって、強化が推進されてきたものだ。1980年代に内閣安全保障室長を務めた危機管理の専門家、佐々淳行氏によると、日本政府の危機管理システムは米国のホワイトハウスのそれをモデルにして作られていて(官邸地下にシチュエーション・ルームが設けられたことも含めて)、いざという時にはただちに各省庁から担当官僚が集められ、内閣総理大臣の直接の指揮下に入るシステムになっているという。

菅首相を批判する人々はもちろん、支持する人たちも同様に、首相がごく少人数の、このような大規模災害に対処した経験ももたない、総理が個人的に信頼するアドバイザーたちの意見にばかり頼って、既存の危機管理システムを活用しないと決めたことが、今回の災害の深刻さをヨリ早い段階で正確に把握する事を妨げた原因だとみている。首相が頼ったアドバイザー達の中には、彼らが活用できたはずの情報や資源が、政府内の一体どこに、どのようかたちで備わっているのか、それすら皆目分かっていないということさえあった。

その一例をあげよう。それは「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の活用についてであった。当時内閣総理大臣補佐官を務めていた寺田議員をはじめとする総理周辺によると、彼らはそういうシステムが存在するということ自体、3月16日つまり危機発生の5日後まで、知らなかったのだという。

首相自身が率いる民主党の国会議員川内博氏は、もし政府がSPEEDIのことをもっと早く知っていれば、その予測するところ、すなわち、「福島第一原発から放出される放射性物質は北西方向に吹き流される」という予測をもっと早く確認出来ていたはずだと批判する。川内氏の言うように、多くの原発周辺住民たちは、この季節、南の方向に風が吹くことが多いからという経験則だけに頼って、北の方向に向けて避難した。その結果、放射線から逃げようとした多くの人々が、まさにその放射線が降り注いでくる地域にその身体を晒してしまうことになってしまったのだ。

川内議員によると、同氏が、SPEEDIを管轄する文部科学省に対して、なぜ、このように重要なSPEEDIの予測結果を、特にあの最も大切な初動の数日間、官邸に報告しなかったのかと問いただすと、文科省の返事は、「官邸から求められなかったから」、というものだったという。

松本参与は、「これは感情的要素の方が強いんだよ」と言う。首相は、「決して官僚を信頼しないんだ」とも。

これは1990年代に厚生大臣を務めて、エイズ問題に取り組んで以来の菅氏の伝説的資質だと言える。当時、HIVウィルスに感染している血液製剤によって何百人というエイズ患者が発生した事件について、厚生省と製薬会社が結託して、長い間そうと知りながらその血液製剤を使い続けていたという事実を、厚生大臣だった菅氏が明らかにしたのだ。このときの活躍で菅氏は国民から圧倒的な支持を受けたのだ。

松本参与によれば、菅首相にとって、いわゆる原発村 ―― 政治力たくましい電力会社、電力会社をそそのかして支援する経産省、さらに何でも言う事を聞く御用学者たち ―― というものは、これ以上ない最悪の癒着構造の見本だということになる。

「指示を無視すること」

前述の海水注入の例は象徴的だ。

5月末に行われた国会証言で、菅首相は、海水注入にともなう再臨界のリスクはどのくらいあるのかと、専門家に尋ねたということを述べた。総理周辺によると、その時、原子力安全委員長の斑目氏が、その可能性は「ゼロではない」と警告したため、、皆の懸念が膨らんだという。

3月12日、津波が原発を襲ってから約28時間後、東電本社の幹部は現場に対して、海水注入の指示を出した。しかしその21分後、本部は現地で指揮を執る吉田所長に対して、一旦海水注入を止めるようにと指示した。官邸に派遣していた東電の担当者から、総理は海水注入に慎重な様子だという報告を受けたことに基づいて、東電幹部はこのような指示に踏み切ったのだ。

東電の武藤副社長は記者会見で、「(官邸詰めの担当者から)まあ、そういう雰囲気というか、そんなムードだという連絡があったということだ」と述べた。

元内閣安全保障室長の佐々氏は、この点について、「ムード? 冗談じゃない。ムードに基づいて意思決定するというのか?」と憤る。しかし、現地の吉田所長はこの指示を無視して注水を続けるという選択をした。専門家によれば、海水の注入は原子炉冷却のために残された最後の手段で、あの時これをもし止めていたら、もっと深刻なメルトダウンが起こって、さらに大量の放射線が放出されることになっていたかもしれないという。

東電の本部長代理、松本純一氏によれば、現地の責任者である吉田所長には、この点について自ら判断を下す権限があったという。そしてそのことはIAEAのガイドラインによっても明確に示されている。福島での事故調査団の一員をつとめたIAEAの専門家サン・キーヨンも、このような場合、緊急対応について時宜を失することのないように、技術的な課題についての決定権は現場所長ゆだねられるべきであると語った。

この間の経緯を明らかにした吉田所長は、テレビ局の取材に対して、現場の人間にとっては、「海水注入を止めるということは、死ぬかもしれないということを意味したのだ」と答えた。

吉田所長(56歳)を良く知る人たちによると、同氏は、四角アゴの、酒が強くて、時に乱暴なものの言い方をする、極めて率直な性格の人物だという。若い頃は剣道に打ち込んでいて、レイモンド・チャンドラーの名セリフを口にし、イタリア料理をつくるのが趣味だという。

津波が原発を襲った翌日、自衛隊のヘリコプターで現地に飛んで吉田所長と面会した菅首相は、所長の持ち前の率直な物言いに強い印象を受けた。かつてエイズ問題を白日のもとにさらしたときのように、既存のシステムを突き動かしてやろうということについて、両者は意気投合した。しかも、同窓生の間での先輩後輩関係が極めて大きな意味を持つこの国で、両者とも、たまたま東京工大の同窓生だったということが分かったのである。

松本氏によると、「それからわずか一日か二日のうちに、吉田所長は、東電の中で、菅総理が信頼する唯一の人物になった」とのことだ。

先週、東電は吉田所長に対して、命令に従わなかったことに対する最も軽い処分、口頭による注意処分を下した。

「不信と怒り」

菅総理に対する批判者も支持者も、総理が東電に対して疑念を抱いているのは無理のないことだという点については一致している。3月11日からしばらくの間、東電は官邸との間で情報共有することに熱心ではなく、発電所が直面するリスクについて、それは大したことではないと思わせようとしていたのだという。、

東電は本紙の取材に対して幹部が応じることを拒否したが、前出の松本氏は記者会見の席で、東電としては出来る限りの情報提供をしてきたと述べた。また、その席で、菅総理は東電に対して不信感を抱いていると報じられているが、という質問に対してはコメントするのを拒否した。

とは言え、寺田代議士やそのほかの総理周辺の話を総合すると、少なくとも災害発生直後、この原発危機で最も大事な最初の3日間においては、菅政権の対応は数十万人にのぼる避難民の救済対応の方に集中しており、原発対応は実質的に東電に任されているような状態であったという。 そして3月14日が訪れた。2回目の水素爆発が、今度は3号機で起きたこと、そしてその夜、現場の状況が極めて危険なため、社員を現場から引き揚げることを許可して欲しいという、東電の清水社長からの、驚くべき要請があったことによって、事態の深刻さが誰の目にも明らかになったのだ。

この清水社長からの要請を耳にした時、その時居合わせた人々の言によると、菅総理は文字通り怒り心頭に発した様子であったという。現場から皆を引き揚げさせるということは、その翌日水素爆発に見舞われた2号機、4号機も含めて、合計4基の、大きな損害を受けた原子炉が、全部制御不能になってしまうということにほかならない。

「冗談じゃない!」、 総理は声を荒げたという。

翌15日未明、総理は官邸で緊急会議を招集し、原子炉の安全を確保するために、もっと何かできることはないかと問いただした。そして、わずか2時間の事前予告で、首相が自ら足を運んで東電本社に乗りこむということを東電に伝えさせた。

同日の早朝5時30分、東電本社に乗り込んだ菅総理は最も信頼する側近議員の一人、細野内閣補佐官をお目付け役として東電本社内に常駐させるという措置をとることを告げた。

そして、前出の寺田議員によると、総理はその場で5分間にわたる台本なしの激を飛ばして不退転の決意を示し、「現場からの撤退など、絶対にあり得ない」と言い渡したという。

関係者によると、細野氏を東電に常駐させたこの日がターニングポイントになったという。この時以来、原発の事故対策について、ようやく総理が直接コントロールすることを助けることが可能になった。ある政府関係者は匿名を条件に次のように語った。「これによって、ようやく我々は、東電が何を知っていて、今どのようなことを議論しつつあるのかということを初めて知ることが出来るようになったのだ」

しかしながら、総理の支持者でさえも、この措置は遅きに失したと認める。

総理の顧問で東京工大の原子力工学専門家、有富氏は、「我々はもっと早く動くべきであった」と語った。細野氏を東電本社内に常駐させるという措置をとった後においても、東電は、重大な情報を秘匿するという姿勢を5月の半ばころまで続けていた。そのような情報の一例が、4基の原子炉のうち、3基の原子炉についてすでに早い段階でメルトダウンが起きていたということをついに認めたことだ。

「同盟国アメリカとの間の緊張」

不十分な情報提供と場当たり的な日本政府の対応は、この国に約5万人にのぼる軍関係者を駐留させている同盟国アメリカとの関係をこじらせることになった。

前防衛政務官の長島氏によると、日本は津波災害犠牲者についての米軍からの救援活動の申し出については、これを素早く受け入れたものの、原発事故については、少なくとも発生当初、アメリカからの支援や協力の申し出を断り、正確な情報を出さず、誤解を強いるような対応に終始した。少なくともワシントンの関係者の間でこのような受け止められ方をしたのは事実で、一時は「日米同盟の危機」とも言えるような事態が出現したのだという。

例えば、米国原子力規制委員会の担当者数人が日本に到着したのは、地震発生から48時間以内のことであった。しかし彼らは日本側から必要な情報を得られず、ミーティングのアレンジすら整えてもらえなかった。この間の事情に詳しいアメリカ政府関係者の一人は、匿名を条件に次のように語った。日を追うにつれてワシントンでは、日本政府が事態を過小評価しているのではないかという確信をもつに至った。アメリカ政府は、通常は北朝鮮の核実験などをモニターするために使用している宇宙衛星や、偵察機から、福島原発に関する様々な情報を手に入れており、それら独自に入手した情報に基づいて、そうした判断に達したのだった。

このアメリカ政府関係者によると、オバマ政権は、日本政府に対して、米政府にもっと多くの情報を提供するよう、「圧力をかける」ということに決したのだという。3月16日には、駐日米大使のルース氏を含むアメリカ政府の担当者が日本政府の担当者を訪ねて、アメリカ政府は、原発の所在地から半径80km 以内に住む自国民に対して、自主避難を促す声明を発表するということを伝えた。これは日本政府が発表した30km 以内の地域住民に対する自主避難勧告と比べて、はるかに広い範囲を対象にしたものであった。

寺田氏を含む複数の日本政府関係者と、このアメリカ政府関係者の話しを総合すると、在日米軍基地では軍人の家族など、日本に留まることが必要不可欠ではない人々による自主的避難がすでに始まっていたし、そして、もしこのまま、日本政府が情報を適切に提供しないという姿勢を続けるのであれば、アメリカ政府はもっと過激な措置、すなわち軍関係者の一部をこの国から避難させるということまで、実は検討しているとほのめかした、ということだ。

寺田氏は、ワシントン政府と、日に日に不安を募らせている日本国民の両方に対して、政府は最善の努力を行っているのだということを示すために、菅総理は自衛隊ヘリコプターによる原子炉建屋上空からの注水作業を実施させた、と述べた。さらに、このヘリコプターによる注水作戦は、原子炉の冷却にほとんど効果がないということはあらかじめ分かっていた、ともつけ加えた。3月17日、テレビの生中継が行われる中、作戦は実行された。ヘリコプターが上空から大量の水を投下したが、そのほとんどが、強い風によって吹き流され、狙いをはずれてしまったことが明らかであった。

しかし、寺田氏によると、首相はオバマ大統領との電話会談で、この作戦は成功だったと自ら直接伝えたのだそうだ。同日遅くにワシントンでは、オバマ大統領が日本大使館を訪れて弔意を示すための記帳に自らサインした。日本の首相官邸では米国大統領からのサポートの証しと見なされたたジェスチャーであった。

前出の長島氏によると、アメリカ政府からの、もっと情報を寄こせという要求は、結果として日本政府の事故対応への取り組みを改善させる効果をもたらしたという。長島氏は3月20日、首相に対して、日米両政府間の関係者によるミーティングをデイリーベースで行う必要があるという案を提出した。両国政府間で情報を整理し、原発事故への対応策を、協同で議論しようというのだ。

この提案はただちに受け入れられ、翌日、第1回目のミーティングが官邸で開かれた。長島氏の説明では、会議は毎回、概ね1時間半ほどで、参加者は大体50名くらい。米側の出席者は、米国原子力規制委員会のメンバー、駐日米国大使館及び在日米軍の担当者などで、日本側は、多くの国会議員や官僚、原子力安全委員会そして東電の担当者などが含まれる。この会議は、原発対応について菅総理の右腕となっていた細野補佐官によって主宰された。

この会議が本当に役に立つようになったのは、毎回会議の始まる1時間前、アメリカ側が到着する前に、日本側の参加者の間で、アメリカ側に対してどう説明し、どう答えるかということを事前に打ち合わせするようになったからだ、と長島氏は語る。この事前打ち合わせの場で、震災発生以来、初めて、政治家の示した手順に従って、関係省庁の役人と東電が議論に参加し、有意義な協議が進められることになったというのだ。

「日本側としては、とにかく関係者を全員一つの部屋に集めるという事が大事だったんだ」と長島氏は語る。「アメリカ政府が腹を立てて乗り込んできてくれたお陰で、ようやくそれが実現して、災害マネジメントのあり方を改善するチャンスになったというわけだ」

Kantaro Suzuki contributed reporting.

The New York Times

June 12, 2011
In Nuclear Crisis, Crippling Mistrust
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER

TOKYO ― On the evening of March 12, the Fukushima Daiichi nuclear plant’s oldest reactor had suffered a hydrogen explosion and risked a complete meltdown. Prime Minister Naoto Kan asked aides to weigh the risks of injecting seawater into the reactor to cool it down.

At this crucial moment, it became clear that a prime minister who had built his career on suspicion of the collusive ties between Japan’s industry and bureaucracy was acting nearly in the dark. He had received a confusing risk analysis from the chief nuclear regulator, a fervently pro-nuclear academic whom aides said Mr. Kan did not trust. He was also wary of the company that operated the plant, given its history of trying to cover up troubles.

Mr. Kan did not know that the plant manager had already begun using seawater. Based on a guess of the mood at the prime minister’s office, the company ordered the plant manager to stop.

But the manager did something unthinkable in corporate Japan: he disobeyed the order and secretly continued using seawater, a decision that experts say almost certainly prevented a more serious meltdown and has made him an unlikely hero.

The convoluted drama has exposed the underlying rifts behind Japan’s handling of the worst nuclear disaster since Chernobyl, which eventually resulted in explosions at four of the plant’s six reactors. Mutually suspicious relations between the prime minister’s aides, government bureaucrats and company officials obstructed smooth decision-making.

At the drama’s heart was an outsider prime minister who saw the need for quick action but whose well-founded mistrust of a system of alliances between powerful plant operators, compliant bureaucrats and sympathetic politicians deprived him of resources he could have used to make better-informed decisions.

A onetime grass-roots activist, Mr. Kan struggled to manage the nuclear crisis because he felt he could not rely on the very mechanisms established by his predecessors to respond to such a crisis.

Instead, he turned at the beginning only to a handful of close, overwhelmed advisers who knew little about nuclear plants and who barely exchanged information with the plant’s operator and nuclear regulators. Struggling to manage a humanitarian disaster caused by the tsunami, Mr. Kan improvised his government’s response to the worsening nuclear crisis, seeming to vacillate between personally intervening at the plant and leaving it to the operator, the Tokyo Electric Power Company, known as Tepco.

“There were delays. First of all, we weren’t getting accurate information from Tepco,” said Kenichi Matsumoto, an adviser to Mr. Kan. But Mr. Matsumoto added that the prime minister’s distrust of Tepco and bureaucrats “interfered” with the overall response.

The early disarray alarmed the United States government enough that it increasingly urged the Japanese to take more decisive action, and to be more forthcoming in sharing information. Making matters worse was Mr. Kan’s initial reluctance to accept the help of the United States, which offered pump trucks, unmanned drones and the advice of American nuclear crisis experts.

“We found ourselves in a downward spiral, which hurt relations with the United States,” said Manabu Terada, a lawmaker who served as an aide to Mr. Kan at that time. “We lost credibility with America, and Tepco lost credibility with us.”

Lack of Experience

Even some supporters say that Mr. Kan could have moved faster and more decisively if he had used Japan’s existing crisis management system.

The system was created in 1986 and subsequently strengthened by Japanese leaders who had sought more power for the prime minister. Modeled on crisis management in the White House ― even down to the Situation Room under the prime minister’s office ― the system brought together bureaucrats from various ministries under the direct command of the prime minister, said Atsuyuki Sassa, the head of the Cabinet Security Affairs Office in the late 1980s.

Critics and supporters alike said Mr. Kan’s decision to bypass this system, choosing instead to rely on a small circle of trusted advisers with little experience in handling a crisis of this scale, blocked him from grasping the severity of the disaster sooner. Sometimes those advisers did not even know all the resources available to them.

This includes the existence of a nationwide system of radiation detectors known as the System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information, or Speedi. Mr. Terada and other advisers said they did not learn of the system’s existence until March 16, five days into the crisis.

If they had known earlier, they would have seen Speedi’s early projections that radiation from the Fukushima plant would be blown northwest, said one critic, Hiroshi Kawauchi, a lawmaker in Mr. Kan’s own party. Mr. Kawauchi said that many of the residents around the plant who evacuated went north, on the assumption that winds blew south during winter in that area. That took them directly into the radioactive plume, he said ― exposing them to the very radiation that they were fleeing.

Mr. Kawauchi said that when he asked officials at the Ministry of Education, which administers Speedi, why they did not make the information available to the prime minister in those first crucial days, they replied that the prime minister’s office had not asked them for it.

“It’s more of an emotional thing,” Mr. Matsumoto said of Mr. Kan. “He never trusts bureaucrats.”

That is a legacy from Mr. Kan’s stint as health minister in the mid-1990s, when he became wildly popular after exposing his own ministry’s use of blood tainted with H.I.V., which led to hundreds of hemophiliacs dying of AIDS. Mr. Kan found that bureaucrats and pharmaceutical company officials had long known of the tainted blood.

To Mr. Kan, the nuclear establishment ― with politically connected utilities abetted by bureaucrats in the Ministry of Economy, Trade and Industry and compliant academics ― represented the worst example of this kind of collusion, Mr. Matsumoto said.

Ignoring Orders

The seawater example is telling.

In testimony in Parliament in late May, Mr. Kan said that he asked advisers to weigh the risks that the seawater injection could cause “recriticality,” a phenomenon in which nuclear fission resumes in melted nuclear fuel lying on the floor of a storage pool or reactor core. Mr. Kan’s aides said they grew worried after Haruki Madarame, the chairman of the Nuclear Safety Commission, a nuclear regulator in the prime minister’s office, warned that the chances of this happening were “not zero.”

On March 12, about 28 hours after the tsunami struck, Tepco executives had ordered workers to start injecting seawater into Reactor No. 1. But 21 minutes later, they ordered the plant’s manager, Masao Yoshida, to suspend the operation. They were relying on an account by the Tepco liaison to the prime minister, who reported back that he seemed to be against it.

“Well, he said that was the atmosphere or the mood,” Sakae Muto, Tepco’s executive vice president, explained at a news conference.

Mr. Sassa, the former head of the Cabinet Security Affairs Office, said: “Mood? Is this a joke? Making decisions based on mood?” But Mr. Yoshida chose to ignore the order. The injections were the only way left to cool the reactor, and halting them would mean possibly causing an even more severe meltdown and release of radiation, experts said.

Mr. Yoshida had the authority as the plant manager to make the decision, said Junichi Matsumoto, a senior official at Tepco. And indeed, guidelines from the International Atomic Energy Agency specify that technical decisions should be left to plant managers because a timely response is critical, said Sung Key-yong, a nuclear accident expert who participated in the agency’s recent fact-finding mission to Japan.

After revealing in May that he had ignored the order, Mr. Yoshida explained himself to a television reporter by saying that “suspending the seawater could have meant death” for those at the plant.

Mr. Yoshida, 56, according to friends, is a square-jawed, hard-drinking and sometimes rough-talking man who is a straight shooter. A practitioner of kendo in his youth, he also quotes from Raymond Chandler and enjoys cooking Italian food.

“In class, if a teacher didn’t explain something properly, he’d push for an explanation that satisfied him,” said Masanori Baba, a childhood friend.

His candor impressed Mr. Kan, who met him the day after the tsunami when he took a trip on a military helicopter to the plant. They shared a willingness to buck the system, as Mr. Kan had when he uncovered the tainted blood scandal. And, in a country where alumni ties are extremely important, they found they had attended the same college, the Tokyo Institute of Technology.

“One or two days later, Mr. Kan said Mr. Yoshida was the only one he could trust inside Tepco,” Mr. Matsumoto, the adviser to Mr. Kan, said.

Last week, Tepco gave Mr. Yoshida its lightest punishment of a verbal reprimand for defying the order.

Distrust and Distraction

Mr. Kan’s critics and supporters alike say his suspicions of Tepco were well-founded. In the early days after the March 11 disaster, Tepco shared only limited information with the prime minister’s office, trying instead to play down the risks at the plant, they said.

Tepco declined to make senior executives available for this article. Mr. Matsumoto, the Tepco senior official, said at a news conference that the company had provided information as best as it could. He declined to comment on Mr. Kan’s reported lack of trust of Tepco.

Yet the Kan government essentially left the handling of the nuclear crisis in the crucial first three days to Tepco, focusing instead on relief efforts for the hundreds of thousands left homeless, Mr. Terada and other aides said. Then on March 14, the gravity of the plant’s situation was revealed by a second explosion, this time at Reactor No. 3, and a startling request that night from Tepco’s president, Masataka Shimizu: that Tepco be allowed to withdraw its employees from the plant because it had become too dangerous to remain.

When he heard this, Mr. Kan flew into a rage, said aides and advisers who were present. Abandoning the plant would mean losing control of the four stricken reactors; the next day, explosions occurred at the two remaining active reactors, No. 2 and No. 4.

“This is not a joke,” the prime minister yelled, according to the aides.

They said Mr. Kan convened an emergency meeting early on March 15, asking advisers what more could be done to save the reactors. Then he gave Tepco barely two hours’ warning that he planned to visit the company.

At 5:30 a.m., Mr. Kan marched into Tepco headquarters and stationed one of his most trusted aides, Goshi Hosono, there to keep tabs on the company.

Mr. Kan gave a five-minute impromptu pep talk, said his aide, Mr. Terada.

“Withdrawing from the plant is out of the question,” Mr. Kan told them.

Advisers said the placement of Mr. Hosono in Tepco was a turning point, helping the prime minister to take direct control of damage-control efforts at the plant. “For the first time, we knew what Tepco was debating, and what they knew,” said one adviser, who asked not to be identified.

However, even Mr. Kan’s supporters acknowledge that the move came too late.

“We should have moved faster,” said Masanori Aritomi, a nuclear engineer at the Tokyo Institute of Technology and an adviser to Mr. Kan. Mr. Aritomi said that even with Mr. Hosono stationed inside Tepco, the company still did not disclose crucial information until mid-May, including final confirmation that three of the plant’s four active reactors had melted down.

Strains With an Ally

The poor flow of information and ad hoc decision-making also strained Japan’s relationship with the United States, which has about 50,000 military personnel stationed in Japan.

While Japan was quick to accept the American military’s offers to help victims of the tsunami, the perception in Washington in the early days, that it was being rebuffed and misled in the unfolding nuclear disaster, had created “a crisis in the United States-Japan alliance,” said Akihisa Nagashima, a former vice minister of defense.

Within 48 hours of the earthquake, officials from the United States Nuclear Regulatory Commission arrived in Tokyo, but they were unable to get information or even arrange meetings with Japanese counterparts. Meanwhile, Washington became convinced that Tokyo was understating the damage at the plant, based on readings that the Americans were getting around the plant from aircraft and satellites normally used to monitor North Korean nuclear tests, said one American official, who asked not to be named.

According to this official, the Obama administration made a decision “to lean on the Kan government” to share more information. On March 16, American officials, including the ambassador to Japan, John V. Roos, informed their Japanese counterparts that the United States would advise its citizens to evacuate an area 50 miles around the plant ― much larger than the 18-mile voluntary evacuation zone then established by Japan.

The Americans also began voluntary evacuations of nonessential personnel at their bases, and hinted at more drastic steps, even pulling out some essential military personnel, if Tokyo did not share more information, said this American official and Japanese officials, including Mr. Terada.

To show Washington and an increasingly anxious Japanese public that utmost efforts were being made, Mr. Kan deployed military helicopters to drop water into the reactors, Mr. Terada and other Japanese advisers said, adding they knew this would have only a limited effect on cooling them. On March 17, on live television, the helicopters dropped water from the air, though strong winds clearly blew much of the water off course.

Still, Mr. Terada said that Mr. Kan personally called President Obama to tell him the operation was a success. Later that day in Washington, Mr. Obama paid a visit to the Japanese Embassy to sign a book of condolences ― a gesture seen in the prime minister’s office as a nod of approval by the American president.

Mr. Nagashima said the American demands to be better informed ultimately improved Japan’s own response. On March 20, he brought a proposal to Mr. Kan for a daily meeting between American and Japanese officials to coordinate information and discuss responses to the nuclear accident.

The first such meeting was held a day later at the prime minister’s office. Mr. Nagashima said the meetings lasted an hour and a half, and usually involved about 50 people, including officials from the American Nuclear Regulatory Commission, the United States Embassy and the military, as well as a far larger Japanese group made of political leaders, people from five ministries, from nuclear agencies and from Tepco. The meeting was led by Mr. Hosono, who by then had become the prime minister’s point man on the nuclear response.

Mr. Nagashima said that even more important was what happened before the Americans arrived: the Japanese met an hour beforehand to discuss developments and to work out what they were going to tell the Americans. Mr. Nagashima said the meeting brought together the various ministries and Tepco, with politicians setting the agenda, for the first time since the crisis began.

“The Japanese side needed to gather everybody in the same room,” Mr. Nagashima said. “U.S. irritation became a chance for Japan to improve its disaster management.”

Kantaro Suzuki contributed reporting.

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